受験生にとって、勉強すると言うことは毎日が自己との戦いの連続である。
戦いである以上、戦う相手があるはずだ。
とりあえず相手としてあげられるものは、こんな感じだろう。
外向きの相手「部活が忙しいor楽しい」「遊びに行きたい」「ゲームをしたい」「友達とだべりたい」「家の手伝いをしなければならない」等
自身の中の相手「授業がわからない」「勉強する気がしない」「用語、単語が覚えられない」「眠い」等
外向きの相手は、その外部要因と距離を置くことでなんとか対処できそうだが、自身の中の相手は自分の中に原因があるので、それこそ自分自身がバージョンアップでもしない限り、そう簡単に解決しそうにない。
ネットや書店などでは、そんな悩める受験生のために「○○勉強法」、「モチベーションアップのテクニック」など探せばいくらでもある。
しかし果たして、ひたすら勉強に没頭している人は、そんなに高度なテクニックを誰かに教えてもらって使っているのだろうか。いわゆる「勉強法、テクニック」の著者は皆んなネットやハウツー本で学習してから実践してるのだろうか。おそらくそうではないだろう。
1.当然やらなければいけないことは当たり前のこととしてやる。
2.何らかの方法で苦痛を快楽に昇華してしまう。
「勉強法、テクニック」の著者はこのどちらかだろう。1.の場合は何も言うことはない。そして、2.の場合は、いわゆる勉強方法やテクニックを学ばなくても、勉強の過程を「好き」になれば自ずと解決する。
好きこそものの上手なれ
「好き」の対象は様々だが、要は脳が快感を感じれば何でもいい。問題を解けた時の快感でも、テストの点数が上がった時の達成感でも、他人がやらない事をやってる「俺ってスゴイ」の自己陶酔感でも何でもいい。対象が何であれ、以前出来なかったことが出来るようになれば、興味を持つようになる。
注意する事があるとすれば、比較対象は他人ではなく過去の自分である。他人と比べると比べる相手も変化しているため、自分が目標とするゴールがコロコロ変わってしまう。
では勉強の過程を好きになるにはどうすればいいか。それは一番好きなものと無理矢理にでもこじつける事だ。ゲームでもスポーツでも音楽でもお金儲けでもなんでもいい。そうすれば勉強する目的も決まり、自然と目標も設定できる。当然自身の中の相手とは戦う必要すら無くなる。もう無駄な戦いはしなくていいのだ。
目的があれば自ずと目標が決まり、その目標を達成するために必死であれこれ手を出して試してみる。その過程で自分に合った方法が結果的に「勉強法のノウハウ」として残るわけだ。
「勉強法」とは自分の人生の足跡みたいなものだ。それを他人にあれこれ教えてもらう必要は無い。人は「勉強法」を勉強するほど暇ではない。
結論
高度な勉強法があるから勉強が出来るのではなく、勉強した結果自分なりの最高の勉強法が生まれるわけだ。