kirinmanjairo’s blog

高校受験、大学受験に関するよもやま話

AIツールによって作成された、台風被害デマ画像の流布によって考えること

読売新聞より引用

https://www.yomiuri.co.jp/national/20221003-OYT1T50154/


台風15号の大雨被害に関して、AI(人工知能)ツールを使って架空の出来事をでっち上げた画像をツイッター上で拡散し、人々を混乱させるという問題がおこった。

>理由は「『見た人がだまされたら面白いな』という軽い気持ちだった」と言う。

 

投稿者は、もし、自身が被災当事者や関係者であればそんなフェイク画像を投稿するかどうか、考えてみなかったのか。

リアルの世界で考えると、面と向かって人をだますというのはかなりハードルは高い。しかし、ネット上でしかも不特定多数に向かってのアプローチの場合「そこに相手がいない」。そのため、自分の起こしたアクションに対する他人の反応に想像力を働かせる事ができなかったのではないかと想像する。

 

と言ってしまえば簡単だが、もう少し丁寧に考えてみる。

『見た人がだまされたら面白いな』と「軽い気持ち」はあまりにもバランスが悪い。『見た人がだまされたら、、、』は、かなりの負の反応があることが想像できる。しかし一方「軽い気持ち」は、自分に対する負の反応が返ってくることを想定していない。つまり「誰かをだまして不快な気分にさせても、直接水害に遭っていない自分には無関係であり、むしろ愉快」という予測を含んでの動機だと考える。
「『見た人がだまされたら面白いな』という軽い気持ちだった」は、本来なら、
「『見た人がだまされたら面白い』という、かつて経験したことの無いほどの気分の高揚を感じる気持ちだった」となることで、動機としての整合性がとれる。
つまり「軽い気持ち」は後付けの言い訳で、本当はもう少したちの悪い「他人の困惑を見て悦に入る」という野卑な動機を(無意識に?)認めたくなくて「自分の配慮が足りないばかりに多数を不快にさせた」ことにして免罪符として使っているように見える。
この手の問題はここがキーになってくると考える。こういったネット上の問題は物事を主観のみでなく、客観もしくは俯瞰的に考える習慣を身につけておけば防げた出来事である。

記事によると、この件については以下のように結んでいる。

>偽情報を研究する桜美林大の平和博教授(メディア論)は「誰でもAI画像を作ることができ、いたずらや悪意で発信することも容易になった。真偽が分からないものが増えれば、災害時などに本物の画像が逆に『フェイクでは』と疑われ、悪影響が出る恐れもある。発信者の過去の投稿から信頼性を調べたり、公的機関や専門家の見解を確認したりするなどの基本的な対策が重要だ」と指摘する。

 

既に起こった現実の、もしくは今後起こりうるフェイク情報に対する対処法としてはもちろんそのとおりだが、
あえて補足するなら、人をだますために悪意ある行動をすることや、フェイクを作ろうといういたずら心を起こさせないための環境が当たり前であるべきだ。

技術の進歩によってもたらされる、副作用をまた技術によって防ぐことも必要だが、どれほど技術が進歩しても「技術」はそれを扱う人次第で、善にも悪にもなるのは自明の理である。そうであれば扱う側の人間に対する丁寧な教育こそが、最大の防御になるのではないか。

例えば、中学高校の社会の授業で倫理を必修教科として学ばせるのも一つの方法だ。現状倫理は普通科高校で選択科目であり、工業、商業など職業系高校では選択すらできない。社会通念や常識として判断される道徳も必要だが、洋の東西を問わず、思想家や哲学者の考えを知ることは現実社会に起きている出来事を自分以外の視点から見るための道具として非常に有意である。他の様々な学問がそうであるように、倫理もまた先人の考えを知識として習得することは、子供が成長と共に社会性を身につけていく段階で、自分と他者の関係の中で起きる問題解決のための道具として使える。

以前の記事に書いた「小学生には英語よりも国語の必要性が高い」と同じくらい、中高生には倫理を学習させるべきであると考える。

 

 

 

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